『第1話“ハジマリ”』
「ねぇ、キミ。世界を救いたくはないかい?」
いつもの学校からの帰り道。アタシは、いつもどおりまっすぐ家に帰って、勉強をするはずだった。つまらなそうに石を蹴りながら、帰り道にある銀杏並木を歩いていたら、ワゴン車に乗った二十代の男が声をかけてきた。
「世界を?」
「うん。世界を」
普通の人間なら、これを新手の誘拐かと思うかもしれないが、アタシは正直、ラッキーだと思った。
今時、こんなことを言ったら絶対に怪しまれるのは必至。
彼は、アタシを試しているのだとわかった。人通りもそれなりにあったし、誰に見られてもおかしくはなかったのに、それなのに、彼はアタシに話しかけてきたわ。
チャンスは今しかなかった。生身の人間であるアタシ一人では、動けない。味方は多いにこしたことはない。これを逃せば、次がいつになるか、わからなかった。
「いいわ」
アタシは、彼が望んだ言葉を口にした。
彼は満足げに頷いて、連絡先をアタシに残して、車で走り去った。
それから数日の間。アタシは迷いに、迷った。
確かにチャンスだった。彼の残した連絡先を頼りに、彼のひととなりを調べた。
言うことは何もなかった。
でも、話が上手すぎる…。
でも、これを逃せば…。
OKと答えておいてなんだったが、アタシは珍しく、自分の中でたくさん葛藤した。
そして、彼がアタシに声をかけてきた日から1週間が経ったある夜。
必要最低限のものをつめた小さなカバンを持って、アタシは彼の待つ、約束の場所へいった。他にも必要なものは、彼と連絡を取り合ってすでに数日をかけて運び出してあった。もう、ここに戻ってくる気もなかったから。
約束の時間、約束の場所で、彼はもうすでに待っていた。
街の郊外にある、寂れた公園の中のブランコに優雅に座っていた。
彼は、アタシに気が付くと颯爽と、公園の入り口に立っているアタシの側にやってきた。
「やあ、待っていたよ。さ、行こうか」
彼は、出会ったときと同じように爽やかな顔でアタシに手を差し伸べてくる。
「ああ、そうそう。今日から君の名は氷姫だ」
「氷姫?」
「そう。キミは過去を捨てて、これから地球の未来を救うべく戦うんだ。過去の名はもう必要ないだろう?」
「そうね。氷姫…素敵な響き」
「さ、行こう。キミに会わせたい同胞も待っていることだし」
彼はアタシの手を掴んで、彼のほうへアタシの身体を抱き寄せた。そして、軽々とアタシを抱きかかえて、この間とは違う、黒い高級車の後部座席に乗せた。
彼は運転席に素早く滑り込むと、緩やかに車を発進させた。
車内のラジオからは、アタシの旅立ちを応援するかのような軽快な音楽が流れている。窓から吹き込む、街を駆け抜ける夜風は少し冷たいけれど、妙に心地よい。
夜の暮らしなれた街の中を、黒い車はますますスピードを上げて、住み慣れた家から遠ざかっていく。
(ママ…駿…麻弥…)
いろいろなことに思考を巡らせていたアタシの意識もいつしか白濁としてきた。
やがて、やわらかくて肌触りのよい座席に抱かれて、アタシは深い深い眠りに落ちていった。
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